シンドリアの王宮に身を寄せるようになって幾日が過ぎた。
少しずつ生活にも慣れてきたけど、まだ学ばないといけないことが多い。
一番重要な事が字を覚えないといけないということだ。
言葉は通じるのに何故か字は今まで私が使用していたものとは全く異なっていた。
字が読み書きできないことには勉学も日常生活ですら不便を強いられる。
でもこの世界では字が書けない人も多いらしいから、
こうして字を教えてもらえることは恵まれているのだろう。感謝しないといけない。
「ジャーファルさん、今日もよろしくお願いします。」
「はい、じゃあ昨日出しておいた課題から見せてもらいましょうか。」
ジャーファルさんに字を教わるのがここ最近の私の日課。
政務の合間を縫って忙しいのに私の為に時間を割いてくれるのが申し訳ない。
でもこの前そう零したらジャーファルさんは逆に困ったような顔をされたので、今は感謝の意を伝えるようにしている。
「ふむ。ほとんど合っています。ここの綴りはこうですよ。」
「あ、そうか。」
「でもよくできてますよ。偉いですね。」
ふわりと微笑んで頭を撫でる仕種に恥ずかしいような照れ臭いような気に包まれる。
でも褒められて嬉しいからへらりと頬を緩めた。
その後もジャーファルさんの指導の元、字の勉強を進めるとあっという間に今日の授業時間は過ぎていった。
また課題を出されて、教材をまとめていると向かい側で書類を見ていたジャーファルさんが顔を上げた。
「この後は魔法の修行ですか?」
「はい、まだ覚える事いっぱいありますから。」
「そうですか。がんばって下さいね。」
ありがとうございます、と笑って教材と魔導書を抱え込む。
「前から気になってたんですがはいつもその魔導書を持ち歩いてますね。」
「ああ、これはですね…」
ジャーファルさんが私の持っている魔導書を指差して首を傾げた。
茶色い皮の表紙に少し痛んだ紙。
私がここに来る前から、そして来てからも肌身離さず持ち歩いている大切な本。
「私の恩師の形見です。」
****
私がまだあちらにいた頃、何故か砂浜で行き倒れになっていたところを後の魔法を教えてくれた師となるクジャが拾ってくれた。
何故倒れていたかというと全くわからないのだ。私にはそれまでのある筈の記憶がごっそり抜け落ちていた。何も思い出せないのだ。
名前はおろか何処に住んでいたのか何をしていたのかあまつさえ両親の顔さえ思い出せない始末。
そんな私をクジャは名前をくれ家に住まわせ魔法も教えてくれた。生きる術を与えてくれた。
住まいがある村はたくさんの黒魔導士が住んでいて、他にもジェノムと呼ばれる尻尾の生えた人達が住んでいた。
皆とても優しくて突然やってきた私を受け入れて親切にしてくれた。
そうして日常生活にも慣れてきて1年経った頃。
クジャが死んでしまったのだ。
病に侵された訳ではなかった。致命的な怪我を負った訳でもなかった。
ただ寿命だとクジャは言っていた。
クジャは若かった。でも寿命がきた。
普通の人より短いだけだ、とクジャは苦く笑いながら言った。
クジャの過去にどんな事があったかは知らない。知らなくてもよかった。
過去より今生きている自分を見つめろと言われていたから。
だけど何故クジャが死んでしまうのか。
ただそれだけが納得いかなくて涙をこぼすことしかできなかった。
記憶がなかったことで辛かった事はないけれど、はじめて行き場のない辛さと悲しみに苦しんだ。
暫くは泣き暮らしていたけど何時までもそうしている訳にはいかない。
死ぬ間際に手渡してくれた一冊の本を見つめる。
そこにはクジャが記した魔法の全てが書いてあった。
自分の亡き後はこれで学べと、肌身離さず持ち歩き精進しろと言われた。
その言葉を胸に私はクジャに、恩師の名に恥じない魔導師になろうと誓った。
***
「―といういきさつがありまして、私にとってこの本は大切なものなのです。」
事のあらましを静かに聞いていたジャーファルさんは困ったような悲しいような難しい顔をされていた。
「どうしてそんな顔をされるのですか?」
「いえ、辛いことを話させてしまいましたね。申し訳ありませんでした。」
「ジャーファルさんが謝ることなんて一つもないですよ。
私は記憶がないことを不幸だと感じたことはありませんし、
確かに師が死んだことは悲しいです。でも彼はたくさんの事を遺してくれましたから。」
そう、クジャは私に生きていく術を与えてくれた。
様々な知識だったり、身を守る力、感情、何も持っていなかった私にくれた大事なこと。
「だから私は今を精一杯生きていくんです。どんな事があっても。」
ジャーファルさんの目を見てそう誓いを示すように言う。
これは自分自身に言い聞かせるためにも言っているのかもしれない。
この全く未知である世界を生き抜くために。
かたん、と小さな椅子を引く音が聞こえて気がついたらそうっとやわらかく抱きしめられていた。
「が強い決意を持っていることは分かりました。では、もっと私達のことも頼って下さい。」
「…ここに住まわせてくれたり、ご飯をもらったり十分頼っていますよ?」
「そういうことじゃありません。もっと心の部分で、ということです。
あなたはまだ子供です。守られないといけない年なんです。
だから決して一人で何とかしようなんて思わないで下さい。」
じわりと心の奥底から暖かい何かが滲み出た気がした。
どうして彼らはこんなにも優しいんだろう。
溢れ出しそうになる涙を瞼の裏側に押し込んで、軽く目を擦って、はい、と下手くそな笑顔で答えた。
14.1.25