長い嫌な夢を見ていた気がする。
目が覚めた瞬間に忘れてしまっていたが、胸の中がもやもやと気持ち悪く吐き気がした。
研究所から飛び出して樽に潜り込み海へと出たのはよかったが、そのまま疲労からか気を失ってしまった。
それからどれくらいの時間が経ったのかは分からないけど、はっとして樽から這い出てみれば見知らぬ山にいた。
海にいたはずなのに山の中だなんてどういうことか。
着くなら岸辺とか浜とかそういう場所に流れ着く筈なのに。
そんな訳の分からない状況であっても、ともかく行動しなければどうしようもない。
あてもなく山をさまよってどれくらいになるのだろう。
歩き回る内に山賊に2回、山犬に1回襲われた。
売れば少しは金になるだろうと錆びた刀を突きつけてきた男逹と血の臭いを嗅ぎ付けた腹を空かした山犬
それらを全て返り討ちにして私はただひたすら知らない山を駆け回った。
戦った時に出来た傷がズキズキと熱を持ったように痛む。
ただでさえ研究所から逃げた時にたくさん怪我を負ったというのに。
はっはっ、と切れる息と休まず足を動かしながらいっしょに逃げた小さなあの子のことを考えた。
うまく逃げ切れただろうかだとかどこかの島に流れ着くことができただろうかとか。
とにかく無事でそれからできるなら幸せに暮らしてほしいとぼんやり霞む頭の中でそう願った。
私も、ちゃんと、生き延びてみせるから。
どんな知らない困難な場所だって必ず、絶対に。
裸足で逃げてきたのですでに石や枝で切れて剥けぼろぼろだ。
それでも構ってられない。
逃げなくては。
―どこに?
私自身に問いかける声がする。
―帰る場所なんてないのに。
また声がどうしようない問いを放り投げてきた。
そんなの分かってるよ。
ぽつりと音もなく呟いて唇を噛み締める。皮が切れて血の味がした。
帰るところなんてない、頼る人も知り合いも友だちも両親も。
みんなみんな亡くしてしまった。
深い見えない暗がりに足を取られた気がして泣きそうになる。
駄目だ泣いちゃ、少ない水分がさらになくなってしまう。
自分をその命をもって守ってくれた両親の分まで生きると決めたというのに。
やっと自由になったのだ。泣いてる場合じゃないだろう。
涙が落ちないように奥歯を噛んで、ただ走った。
ふいに人の気配がしてその歩みを止める。
いつもなら相手に気づかれる前に気配を察知して身を隠すことも可能だったのに
ここまでの疲労と飲まず食わずで来たこと、怪我を負った状態であったから気づくのが遅れたのだ。
大きな籠を背負った人はたぶん男だろう。
さらりと緩く束ねた髪が女を連想させたが、ここでは男も長髪が多いのだと何人か出会った中で分かっている。
何より体つきが男のものだ。
がさりと遠慮なく踏み込んでしまったせいで男がゆっくりとこちらに振り返った。
その時私は相手がただの一般人かそうでないのか判断する頭を失っていた。
精神も体力も底を尽きかけていたからだ。
相手がこちらを認識した瞬間、腕を刃に変化させた。
それを見て男は驚いた顔をした。それはそうだ。
山賊も私の能力を目の当たりにした時化け物だと叫んでいた。自分でもそう思っている。
私は自分が生きるために奪って這いずり回ってみっともなくとも生を全うしなくてはいけない化け物だ。
騒がれる前にやらないと。
ぐっと前に出ようとしたその時男は私に「きみ、ひどい怪我じゃないか!」と叫んできた。
思わず静止した私は今この男が言ったことを考えた。
この人は今自分が命をとられようとしていることが分からないのか?
そんな訳がない。しっかりと刃の存在も認めていた。
改めて男を慎重に観察すると驚くべきことに男は腕の刃よりも私のあちこちにつくった怪我の事の方を気にしていた。
「どこでそんな傷を……いや、とにかく早く治療しなきゃ」
「っ、来るな!」
男がこちらへと近づいてきたので刃を横凪ぎに振った。
ぴっと男の右腕に細い線が走る。布が薄く切れ、血がじわじわと滲んできた。
それでも男は全く怯まず、更に距離を詰め気をとられて動けなかった私の刃となった腕を優しく握った。
途端に握った手のひらから血が流れる。
当然だ、直接握るなんてこの人おかしいのではないか。
「な、何して……」
「私はきみを傷つけやしないよ」
発した一言に驚いて男の顔を見やれば、彼は穏やかに微笑んでいた。
どうして、そんな顔ができるのだろう。
張り詰めた気が萎んで、すっかり毒気を抜かれた私はそのまま気を失ってしまったのだった。
*****
次に目を覚ました時に視界に映ったのは知らない天井だった。
はっとして身体を起こそうとすればあちらこちらが痛んで、反射的に身体をぐうっと屈める。
声なき声で唸っていると戸がぴしゃりと開かれた。
「こらこら、無理に起き上がってはいけないよ」
顔だけ動かしてみれば最後に会ったあの男が立っていて
さりさりと足音をさせながらこちらに来ると静かに私を布団へ寝かせた。
「まだ本調子ではないのだから急に動かしたら駄目だ」
「…ここは?」
「ここは私の家兼診療所。医者だからね。
きみはあの後気を失ってしまったから勝手に連れてきて治療したんだ。丸二日も眠っていたんだよ」
確かに身体は包帯だらけだし、すんと鼻を鳴らせば薬品のような草の匂いがする。
医者だという男は山川葵だと名乗った。
さすがにもう害を成す相手ではないだろうと私も名乗り、助けてもらった礼を述べた。
そういった所で、ぐうと盛大にお腹が鳴り
そういえば何も口にしていなかったことを恥ずかしさと共に思い出した。葵はくすくすと笑う。
「もう随分と何も食べていないんだろう。
待ってなさい、今食事を持ってきてあげよう」
立ち上がり戸の向こうへ消えた背中を見送って、私は静かに息を吐き出した。
少ししてから湯気の立つ小さな鍋を持ってきて、私の布団の横へ置いた。
中身は白いおかゆだった。
「熱いから気をつけて、ゆっくりお食べ」
器へと移したおかゆを差し出された。
受け取り匙を使い、おかゆを掬いふうふうと息を吹きかけて少し覚ました。
恐る恐る口にしたおかゆはとてもやわらかく、ほんの少し甘い味がした。
「おいしい…」
もう一口、もう一口と食べ進める内にじわりじわりと視界が霞んだ。
次第にぼとぼとと大きな涙のつぶが手元に掛け布団に落ちて濡らしていく。
ついこの前は泣くことも許されなかった。泣けなかった。
ぐずぐずとふやけた思考の中で研究所のひどい食事を思い出した。
味も何も考えず栄養と薬を混ぜたどろどろの液体はただ死なないために用意されたものだった。
おおよそ人の食べ物ではなかった。
それでも生きるために無理矢理喉を通した。
それがこれはどうだろう。
優しい味のするおかゆはとても簡素なものなのに
私が消化しやすいように身体に負担のないように作られたものだ。
きちんと人間のために作ってくれたあたたかな食事だった。
それからは落ちる涙を拭おうともせずひたすら匙を進めた。
葵はその様子を黙ってゆるやかに見つめていた。
最後の一口を食べ、匙を置くと「ごちそうさまでした」と久しぶりに口に出した。
葵も「お粗末様でした」と笑って返した。
「さて、少し落ち着いた所で、きみに何があったのか聞かせてもらえないかな」
先程までの笑みを引っ込めて真面目な顔で葵が言った。
最早この人に隠し立てすることはないだろうと意を決して重い口を開いたのだった。
*****
私はありのまま全てを葵に話した。
恐らく自分は違う世界からやって来たこと、村の紛争のこと、両親のこと
研究所でされた実験や能力のこと、いっしょに逃げてきたあの子のことまで包み隠さず話した。
水を差さずに静かに話を聞き終えた葵はただ一言最初に「そうですか」とこぼした。
それからしばらく沈黙が訪れた。どこか空気が重く感じる。
何か言うべきかと思うのに口はうまく動かなかった。
黙って考え込んでいたように葵は俯いていたが、突然ぱっと顔を上げたので思わず肩をびくつかせた。
「それなら、ここに住みなさい」
「えっ」
久しぶりに言葉を投げたと思えばあっけらかんとそんなことを言うなんて。
戸惑っていたら不思議そうな顔をされた。
「な、なんでそうなるん?今の話聞いてたんやろ!」
「もちろん。だって行く所ないだろう」
「それは…そうやけど―」
「何かあるのかい?」
「私は、化け物やで…」
話をしただろう、あの能力を見ただろう。
ふつうの子どもとはあきらかに違う。
ただでさえめんどうなのにいっしょに住むだなんて考えられない。
そんなことをして葵に何の得があるのだ。
思いつくままに捲し立てれば葵はゆるりと笑って受け流した。
「私も昔一人で困ってた事があってね、助けてくれた人がいたんだ。
と同じようにどうして助けたんだって聞いたら、自分が助けたいって思ったからだと。
理由なんてなくてもそうしたいと感じたことに従ったんだって。だから私もを助けたいただそう思った」
そう言ってくしゃりと私の頭を撫でた。
「人は多かれ少なかれ犠牲を伴わなければ生きていけない。
は人より多くそれを選択しなければいけない環境に無理矢理連れられてしまったんだ。
私にはが必死に生きようとしている小さな子どもにしか見えないよ。
それにもうを縛るものは此処にはいないんだから。」
するすると頭を撫でる手が心地良い。
葵の言葉がしぐさが私の中で締め付けていた何かが解かれていくようだった。
「…いいの?」
「うん」
「ここにいても、いいんかな」
「いいんだよ」
「―そっか。…よろしく、葵」
「こちらこそよろしく、」
それが私の二つ目の人生のはじまりだった。
15.9.19