私の母は変わっている。
どんなことがあっても笑ってなんとかなるでしょ、と受け流し度胸があり、楽天家であり、それでいてどこか抜けている。
15歳の時に父が浮気をして、その女の人と新しく生活したいから別れてくれと切り出された。
あの時も母は「あらそう、なら仕方ないわね」とえらくあっさりと応じたので私は驚いた。
身勝手なのは父の方なのに。そんなのはないと怒るかと思っていた。
私はひどく憤慨していたのに逆に母はいたって落ち着いていた。
それをいい事にじゃあと父が離婚届を出したところで
母は遮るように「それじゃあ一発殴らせて」と言って了解を得ないまま
殴らせて― の辺りから母の放った渾身の右ストレートが父の頬にめり込んでいた。
父はそのまま後ろに吹っ飛んで背後の障子戸と共に倒れ込んだ。
バリバリと障子が破れた音を聞いてなんだか少しばかり冷静になってきた私はぼんやりとここ賃貸なのになぁと思っていたのだった。
「ふう、すっきりした」と実にさわやかな笑顔で
ちゃぶ台に出されていた離婚届に記入し始めた母にこっそりこの人にはたぶん一生叶わないなと察したのであった。
ちなみにこのわが家の伝説的なエピソードは真島さんに話したらおおいにウケた。
そんな母と二人で暮らすようになって早数年。今は随分と平穏無事に過ごせている。
私も働けるようになったし、少しでも楽になっていればいいと思う。
仕事を終えて携帯を確認してみれば母からメールが入っていた。
どうやら雀荘仲間と飲みに行くことになったからご飯はいらない、だそうだ。
母は現在雀荘で働いている。
本人も麻雀が好きで知り合いの伝で働かせてもらっているのだ。
普段食事は私が作ったり、母が作ったり半々くらいだけどいざ一人でとなると作る気が無くなってきた。
今日はもうコンビニとかで済ませようかな。面倒だし。
コンビニにするかはたまた別の物にするか悩むところである。
「お嬢さん、一人でなーにやってるの?」
「ぎゃ!」
道端でそんなことをうんうん悩んでいたら、唐突に後ろから耳元に低い声が聞こえて勢いよく飛び退いた。
「ぎゃ!はないでしょ。もっと可愛い声出せないの?」
「あ、秋山さん……いきなり背後から声かけないで下さいよ!」
ははは、ごめんごめん。
だなんて全く悪びれた様子もなく秋山さんは笑った。
未だにばくばく煩い心臓を胸元を叩きながら落ち着かせていると
秋山さんも、はいはい落ち着いてー、とばしばし肩を両手で叩いてきた。誰のせいだ誰の。
「で、何してんのちゃん」
「今日母が飲み会なのでぼっち飯なんです。
それで何食べようかなって考えてただけですよ」
「ふーん、なるほどね」
軽い口調で頷いている秋山さんを見て、落ち着きを取り戻した頭で再び夕飯の事を考える。
ごめんなさい秋山さん私今とてもお腹が空いているのです。
「じゃあさ、今から韓来で焼肉弁当買いに行くんだけど一緒に事務所で食べない?もちろん俺の奢りで」
「え!いいんですか?でも、なんか悪いですね」
「気にしなくていいよ。皆で食べた方がうまいし、花ちゃんも喜ぶと思うよ。
君たちけっこう仲良いもんね。俺とも仲良くしてよー」
「あはは、秋山さんとも仲良しじゃないですか。何をおっしゃいますやら」
冗談めかして言われたことにこっちも同じく面白おかしく返す。
秋山さんは私より年上だけどとても話しやすい。
仕事柄かキャバクラのオーナーからくるものなのか、はたまた秋山さんの人柄なのか。
「じゃあ、母にも連絡しておきますね」
「うん。ああ、朝子さん元気?」
「元気ですよー。この前もお酒飲みすぎてもうお酒止めるーなんて言ってました」
「あはは、それ毎回言ってるよね」
「そうなんですよ。で次の日になったらまた飲んでるんですから」
母に秋山さんとこの事務所でお弁当ご馳走になってくるとメールをすれば、すぐに返事がきた。
了解と秋山さんへのお礼が綴ってある。
「母が秋山さんにお世話になります、よろしく言っといてだそうです」
「また俺とも飲みに行こうって伝えといて」
「わかりました」
携帯を仕舞うとそれじゃあ行こうか、と二人並んで歩き出す。
神室町のにぎやかな喧騒に紛れるように歩を進めた。
*****
そもそも私達と秋山さんがなぜ知り合ったのかというと、酔いつぶれてしまった母を秋山さんが家まで送ってくれたのがきっかけだった。
その日たまたまお店で会ったらしく、話す内に意気投合しすっかり仲良くなったのだという。
そもそも母はお酒にそれほど強いわけじゃないのについつい飲みすぎてしまい、帰るのが困難になってしまった。
そこで秋山さんが母から住所を聞いてわざわざ家まで送ってくれたのだ。
帰りが遅いのでまた誰かと深酒してるのだろうかと思っていたところでチャイムが鳴ったから驚いた。
どうせ母だろうとは思っていたが念のためドアスコープを覗き見れば、知らない男の人が母に肩を貸していたので慌てて扉を開けた。
男の人は少しだけ目を丸くしてすぐに人当たりの良い笑みを浮かべると
こんばんは、と挨拶をしてきたので私もつられるようにこんばんはと返した。
「夜分遅くにごめんね。きみのお母さんと随分盛り上がっちゃって
一人で帰れないくらい酔ったみたいだから家まで送りに来たんだ。」
「はぁ」
「いや、決してやましい事があるんじゃないよ。
純粋にお酒を楽しんでただけだし、今もね。怪しい者じゃないから、絶対に!」
続けざまに言われたものだからこちらも面食らってしまって、わたわたとする男の人を見てつい吹き出してしまった。
すると男の人も怪しまれてはいないと分かったのか安堵した表情を見せた。
「だいたい状況は分かります。
母が大変ご迷惑おかけしたようで、どうぞ上がってください」
男の人は秋山駿といい、神室町でスカイファイナンスという街金をやっているらしい。
渡された名刺にはシンプルなもので名前と企業名と住所が記されていた。
そういえばニューセレナの近くにそんな名前の看板あったようななかったような。
神室町には長いこと付き合いがあるがまだまだ知らぬことは多い。
全然大丈夫だからーとか意味不明の言葉を羅列する母をなんとか寝かしつけて、リビングにいる秋山さんの所へ戻る。
母の面倒を見る前に出した冷たい水はグラスの半分以下まで減っていた。
「すみません。本当に母がご迷惑を」
「いいって、俺も楽しかったし。
それより悪いね、いきなり知らない男が家に来てさ、びっくりしたでしょ」
「そうですね、ちょっとは驚きましたけど……でも母が信用した人ですから大丈夫だと」
ゆるく口角を上げれば秋山さんも目尻を下げてそっか、とだけ呟いた。
それから少し会話をして秋山さんがもう遅いからと帰ると立ち上がった。玄関まで見送りに行く。
「それじゃあきちんと戸締りしといてね。危ないから」
「はい」
じゃあ、と背を向け扉に手をかけた所で呼び止めた。
ゆったりと振り返った秋山さんの顔をしっかり見とめる。
「また、母と遊んであげて下さいね。飲んだくれですけど」
へらりと笑えば秋山さんもおかしそうに笑った。
「わかったよ。今度はちゃんも一緒だと嬉しいな」
事も無げにさらっと続けられた言葉にああこの人手慣れてるなとか大人だななんて子ども丸出しな感想が出てきた。
思わず関心してしまったが、次に私はもう一度笑ってみせてぜひよろしくお願いします、とつるりと言葉を吐き出した。
*****
がさがさとビニール袋がぶつかる音がする。
お弁当は結局秋山さんが持ってくれていて、三人で食べるには多いそのほとんどを花さんが食べるのだというのだから驚きだ。
「相変わらず花さんはすごいですね」
「そうだね。焼肉弁当ってなかなか重いのにするする食べちゃうんだから。見ててお腹いっぱいになりそう」
「それは秋山さんが歳で脂受け付けないとかじゃないですかー」
「きっついこと言わないでくれない。」
傷つくなぁ、だなんていいながらげんなりした表情をする。
からからと笑えばじとりと睨まれる。これは失敬。
「今度花さんとスイーツバイキング行くんですよ」
「へえ、いいね」
「それでどっちがたくさん食べられるか勝負するんです」
「負け戦じゃないのそれ」
「勝負する前から負けることなんて考えちゃダメですよ」
スカイファイナンスの事務所まであと少し。
とりとめのない会話は事務所に着けば三人に増えて、さらに賑やかになるだろう。
それがなんだか嬉しくて、心地の良い気分になった。
こどもマニキュアと赤いギンガム
15.2.28
title by alkalism