深い深い夜の日の事だった。

仕事を終えて帰宅し、コンビニで適当に買ってきたもので食事を済ませた。
いつも私の所に来てはご飯を食べていく辰雄が居なければ、すぐに私はズボラになってご飯を作るのを止めてしまう。
最近辰雄はめずらしく忙しいようで、あまり会う事はおろか連絡もしてこない。
まあ、いくら彼氏だからとはいえそんな時だってあるだろうと気にしてなかった。

何となく味気ない夕飯をとってからお風呂に入り、だらだらとテレビをかけ流しながら爪の手入れをしていた。
左手が終わって右手に取りかかろうとした所でピンポン、とチャイムが鳴った。
こんな時間に訪れてくる人は一人しかいない。
がやがやとうるさいテレビを消して、玄関まで急いで駆け寄る。
傍まで来た所でがちゃりと鍵が開けられる音がして、ゆっくりとドアノブが捻られた。
そこに立っていたのはやっぱり辰雄だった。
まあ、彼以外だったら恐いけども。


「どうしたの、連絡も無しにめずらしいね」


そう声をかけたのに辰雄は無言で、表情も俯いていてよく見えない。
……なんだか様子がおかしい。


「ねえ、本当にどうしたの……っ!」


玄関に立ち尽くしたままの彼を訝って、触れようと手を伸ばせば突然肩を掴まれてそのまま廊下の壁に押し付けられた。
どっと強い衝撃が背中に走って一瞬呼吸が止まりそうになった。
たまらずゲホゲホとむせてしまう。


「辰雄!いきなり何を―!」

「……ちゃんもなの?」


問いただそうと口を開けば消え入りそうなか細い声が私の言葉に覆い被さった。
ぐっと肩に置かれた指が食い込む。


ちゃんも俺の事騙してるんでしょ?」

「…騙す?一体何の話をして」

「とぼけんなよ!」


普段滅多に出さないような声が私の頭の天辺を貫いた。
驚いて顔を上げれば怒りと悲しみを混ぜた表情の辰雄が私を強く睨み付けていた。

怖い。

今まで見たことのないその顔にただそれだけを感じた。


ちゃんも皆と同じで俺の事ずっと監視してたんだろ?」

「だから、何を言って」

「いいよ。分かってるんだ!そうやって何でもないような顔をして優しいフリをして、付け入って。
 何にも気づかない俺を陰ではバカだなって笑ってたんだろ!」


ぎゅうぎゅうと遠慮無しに力を込められて、あまりの痛みに顔が歪む。
さっきから辰雄の言っている事が理解できない。一体何の話をしているのだ。
騙すだの監視してただの全く意味が分からない。

押さえつけられた肩と背中が痛くて仕方がなかったけど
だんだん訳の分からないこの状況に恐怖から怒りへと感情が移り変わってきた。
いきなり夜中に来といてしかも久しぶりに会うというのに何だこの仕打ちは。
ふつふつと沸く苛立ちを力に変えて、がっと辰雄の肩を掴むと片足を思いっきり振り上げた。


「ちょっと落ち着かんかいこのバカタレが!!」

「―うっ!」


ドッ!

振り上げた足がいい具合に急所に決まって、辰雄は苦しそうに崩れ落ち踞った。
所謂金的である。


「ちょ、ちゃん何すんの……」

「何するのはこっちの台詞だボケ。連絡も寄越さず久しぶりにようやく会えたと思ったら意味分からん因縁つけてきて。
 肩痛いし背中痛いし、マジでいい加減にしろ。というか落ち着け、そして人の話を聞け!」

「……はい」


一息に捲し立てれば急に辰雄は大人しくなった。ようしそれでいい。
一先ず土足で踏み込んできやがっていたので靴を脱がせ、汚れた所は後から掃除させるとして。


「何があったのかさっきの言葉の意味、話してちょうだい」


項垂れた彼の旋毛に声を落とすと、案外素直にこくりと頷いた。







*****






リビングに移動して、さあ全て吐けと促せばゆっくりとこれまでの出来事を話してくれた。
事のあらましを聞き終わった後率直な感想はとんでもないの一言につきた。
辰雄がプロ野球界を去らねばならなくなった事件の裏、それを探らせた謎の男、かつてのチームメイトや辰雄が親しくしていた人間の裏切り。
そしてそれらに殺されそうになったこと。
信じられないような事が辰雄の周りでは起きていて、本当に私は何も知らず変わらない日常を送っていた。


「それで、私もその一員かもしれないって思ったわけね」

「…そうだよ」

「はぁ…」


溢れたため息は思いの外重く、外気に触れて沈殿していくようだ。疑ってしまうのは分かる。
何せ今まで何年も親しくしてきた相手が実は複雑に裏で繋がっていて、おまけに知られた途端殺そうとしてきたのだ。
唯一繋がりのなかった宇野さんと助けにきてくれた高杉さんに私は心から感謝したい。

それにしてもだ。


「辰雄が誰も信用できなくなってしまうのも分かる。
 そんなことがあれば私もそうなってしまうかもしれない、だけど―」


これは勝手な言い分かもしれない。
続けようとした言葉が喉の奥につっかえて、ひりひりと焼けつくような感覚がした。


「それでも私は辰雄に信じてほしかったよ」


絞り出した声は思いの外切羽詰まっていて、おまけに涙まで勝手に溢れ出してくるものだから参ってしまう。
やだな、泣くつもりなんてなかったのに。みっともないじゃないか。
ぐいっと乱雑に手で拭えば、その手は掴まれてそのまま引き寄せられた。
視界が一瞬真っ暗になって、徐々に明るさを取り戻した時に写ったのは辰雄の上着だった。
背中に回された腕と密着した体で抱き締められているのかと遅れた頭で理解した。


「俺、ほんとバカだよね。ごめんちゃん。本当ごめん」


ごめん、と何度も繰り返しながら縋るように抱きすくめられる。
どくどくと胸に当てた耳から心臓の音が聞こえる。
そこで私はようやく辰雄が生きて帰ってきたんだと安心できたのだった。
私の知らない何処かで誰かに殺されてたかもしれないなんて、本当に冗談じゃない。
実感した所でだんだん手が震えてきて、私はその広い背中に腕を回す。
ぎゅっと上着が皺になるくらいきつく抱き締めて、恐い思いを頭の中から追い出す。


「よかった、辰雄が生きていて……本当によかった」

ちゃん」

「いい歳してほぼ仕事無しで部屋汚いし彼女に食い繋いでもらってるし肝心の仕事も風俗ライターとかだし」

「あれ、しんみりしてたと思ったら突然のダメ出し……?」

「そんなダメな奴でも辰雄が好きなんだよ。あんたじゃなきゃダメなんだ」


ひっつけていた顔を上げて辰雄をしっかりと見ながらそう言えば、ぽかんと間抜けな表情になった。
と思えばくしゃりと破顔してまた強く抱き締められた。
後頭部に添えられた手がするすると優しく髪を撫で付ける。


「俺もちゃんが好きだよ」

「知ってる。疑われたけどね」

「うっ……反論はできないけど本当ごめん」

「もういいよ。辰雄がいてくれたらそれで」

ちゃんって男前だよね……」

「そうだよ。辰雄も見習ってくれていいよ」

「精進します」


どちらともなく笑って、やっと元の辰雄に戻ってくれていた。
その事にとても安心している自分がいて、今までわりと緊張していたのかと胸の内で苦笑した。






*****







辰雄がとんでもない勘違いをやらかした次の日。
とりあえず彼は自宅へと戻り、なんだかんだで私も疲れていたのでベッドに直行してすぐに眠った。
その日は休みだったので泥のように寝ていたら、インターホンが鳴り響いた。
ピンポン、ピンポンと絶え間なく鳴るそれに顔をしかめつつ
はいはいと返事をしながら寝起きでよたつく足を玄関へ向かわす。


「どちらさまー?」


鍵を外し扉を開ける。


ちゃん、おはよ……ってダメだよろくに確認しないままドア開けちゃ!変質者とかだったらどうすんの!」


扉を開けた先には辰雄がいて、会って早々怒られた。
ついさっきとは逆の立場である。


「ほらもうシャツもよれてる!そんな無防備だと心配だよ!」

「すんません……」

ちゃんってそういうとこけっこう抜けてるよね」


言いながらシャツを整えてくる辰雄をまだ覚醒しきらないままぼんやりと見る。


「辰雄いったい今度はどうしたの?まだなんかあるの?」

「そう、あるにはあるよ。俺東京に行ってくる!」

「はあ」


身ぶり手振りを交えての説明を聞いた。
謎の男は実は高校の同級生で今はヤクザの組織のトップでその人と一緒に今までの一連の出来事の決着をつけに行くらしい。
だいぶざっくりまとめたが要はこういうことだ。
中身は辰雄にとって大事なことで私にとって大事なことは別にある。


「なるほどそう来ましたか」

「うん、だからしばらくまた留守にするけど…」

「分かった。ちゃんと、帰ってきてね。絶対に帰ってきて」

「―うん」

「待ってるから」

「うん」

「約束だよ」

「約束する。絶対ちゃんの所に帰るよ」


真剣な表情で言い切った。
その顔けっこう好きだなあなんて場違いなことを思いながらもきちんと約束をしてくれたことにほっとした。
例えそれが繋がりの脆い口約束だとしてもだ。
なら私にできることはもう少ない。



「いってらっしゃい」



笑ってそれから抱きしめて送ることと



「いってきます」



彼が無事に帰ってくるのを祈って待つだけだ。









*****








めずらしくすっきりと目覚められた朝だった。
いつもならアラームを何度も何度も鳴らされてやっとずるずると起き上がるのに、今日はアラームが鳴る前に目が覚めた。

なんだか良い一日になる気がする。
そんな予感がしてせっかくだからきちんとした朝ごはんを作ろうと意気込んでベッドから降りた。
トーストにサラダにオムレツを作り、一人満足しつついただきますと手をつける。
カーテンを開け放った窓からは太陽の光がさんさんと差し込んでいて、食事を終えたらシーツを洗おうと決意した。

洗濯物を干し、ついでにと掛け布団と敷き布団も干して一仕事終えた気分でふっと息をつく。
こんな快晴は久しぶりなのだ。
雲ひとつ見当たらない空をベランダから眺めていたら、このまま家に引きこもっているのがもったいない気がしてきた。

同時にふと辰雄の事が頭を過る。
この前高杉さんから辰雄と電話で話したと言われた。
いろいろあったようだがどうやら彼はやること、成すべきことを無事に完遂できたらしい。
連絡しなくても良いのかと聞かれたが
とりあえず無事ならそれでいい、待ってますよと言えば品田にはもったいねぇなと苦笑された。
帰ってくると約束したのだから大丈夫。
それだけを信じていたけど実際無事だと分かったらものすごく安心した。
前にあんなことがあったから余計に。

身支度をさっと整えて鞄を持って玄関へ。
適当にぶらついて買い物でもしようと計画的とは言えないプランを立ててドアノブを捻る。


「うわっ」


ドアを開けた先に誰か立っていて、おまけにその誰かはずっと待ち望んでいた人で。
今まさにインターホンを押そうとしていたという状態で辰雄がそこに立っていた。


「びっくりした。今ピンポンしようと思ってたから―ってあれもしかして出かける所だった?」


つらつらと話始めたと思えばきょとんとした顔でこちらを覗き込んできた。
久しぶりに会ったとは思えないほどのごく自然のものでこちらも初手が遅れてしまった。
尚も固まる私にどうしたのと不安そうに尋ねてくる。
数分遅れて気を取り戻した私は 持っていた鞄を放り出して勢いよく辰雄に飛びついた。
抱きつくというより文字通り飛びつくという表現がしっくりきた。
突然のことにわっと驚いた声を出していたが
しがみつくようにしっかりと抱き締める私をあやすように背中に腕をまわしてぽんぽんとたたく。


「心配した」

「うん。ごめんね」

「でも信じてたよ。必ず帰ってきてくれるって」

「―ありがとう。いろいろあったんだけどさ
 無性にちゃんに会いたくなって、絶対帰ってやるって思ったからさ。余計に頑張れたんだ」

「……そっか」

「東京からすっ飛んで帰ってきてさ、一番にちゃんに会おうって楽しみにしてたんだよ」

「へえ、みるくさんよりも先に会いに来てくれたんだ」

「えっ」

「ゴム無しベッド90分3000円」

「なっ!ど、どこからそれ聞いたの!?」


呪文のように呟けば面白いくらいわたわたと慌てふためいた。
高杉さんから聞いたんだと言えば辰雄は余計なことをうち震えていたけど
私がくすくすと笑っているのに気づいてちょっと安堵したようだった。


「怒ってないよ。高杉さんにもみるくさんにも後でちゃんと挨拶しに行きなよ」

「うん」

「サービス受けるかどうかはまあ、うん、考えものだけど」

「……ごめんなさい」


些かしゅんとしてしまった彼の頭をわしわしと撫で付ければ照れくさそうに笑った。
それから玄関に放り投げられていた鞄を見とめて「出かける所だったんでしょ?一緒にどっか行く?」と問いかけられる。
それもまたいいかもと思ったが、もう少し辰雄が帰ってきた喜びの余韻に浸りたい。


「ううん、いいや。辰雄も疲れたでしょ。ゆっくりしていきなよ」

「俺は全然平気だよ。気使わなくても大丈夫だよ?」

「そんなんじゃないんだけど、今はまだ辰雄のこと一人占めしておきたいかな、なんて」


あんなことがあったとはいえここは彼のホームだ。
またいろんな人に囲まれて構われて、二人きりでいれる時間が少し減るかもしれない。
そう思ってなんとなしに言ったのだが、よくよく自分の発言を考えてみれば恥ずかしくなって最後の辺りは小声になってしまった。
なにこれ恥ずかしすぎる。辰雄はぽかんとした表情だし。


「や、やっぱ今のはなしで」


なんでもない風を装って辰雄の腕を解いてくるりと踵を返す。
そのまま元来た廊下を戻ろうとしたが
途中で我に帰った彼に後ろから手首を掴まえられて、そのまま背後からぎゅっと抱き締められた。


「今のはちょっと反則だよ……」

「だからなかったことにって言ったのに」

「ダメ。せっかくめずらしくちゃんが可愛らしいこと言ってくれたのに」

「めずらしくは余計だよ」


窓からふんだんに降り注ぐ日差しが私達のいる廊下まで眩しく照らしている。
レースのうすいカーテンが風にやわらかく吹かれているし、その向こう側のベランダには白のシーツがはためいていた。
後ろには彼の体温があって、それだけのなんてことのない光景がひどく愛しく思えた。
これからもこんななんでもない日常が続くことを密かに胸の中で祈ったのだった。








年を重ねてゆくあなたを、ずっと傍で見ていられますように






15.7.20

title by afaik